「わかってもらいたい」のかどうか。
近所の映画館で映画「思い出のマーニー」を観てきてみました。
スタジオジブリ作品のアニメーションです。
気になる点はいろいろあるけれど、それはおいといて。
気がついたら真剣に観ていました。
主人公の女の子の名前は杏奈ちゃんといいます。
基本は杏奈ちゃんの成長物語かなと思います。
印象に残ったのが冒頭のシーン。
他の子と距離を置いて生きている杏奈だけど、
一人でそっと描いている絵を先生に見せてと言われて、その気になったら他の事件が起きて先生がどこかに行ってしまいます。その瞬間に杏奈は恐ろしく落胆するのです。
そのシーンを観て、杏奈という子は「わかってもらいたい」女の子なんだって思ったんです(誰にでもというわけではないのだけれど)。
最近、月のあるハウスということについてぼんやり延々と考えています。
ここで言う「月」というのは西洋占星術で出生図というものを出した時の、個々の「素の自分」というもののことですね。それは土台で安定装置、だから乱されるとバランスが崩れることもある。
ハウスというのは「現場」です。たとえば「誰かと一緒にいる時」「お金をきちんと稼いでいる時」「一人でインナースペースにいる時」...月がどんなハウス(現場)にあるかということによって、自分が安定する方法がわかるとも言えます。
例えばわたしの場合は月は10ハウスにあります。
10ハウスというのは「仕事」や「肩書」など、人から見た「何者か」の場所です。そこに素の自分がある。
つまりわたしの場合は素の自分が、人から見た「何者か」の場所そのまんまにいる。
素の自分が認められなくてはいけない。「わかってもらいたい」というか「わかってもらわなければいけない」なのかもしれない。
奇数と偶数というのは重要で。
主に奇数ハウスは「見えやすい場所」と言われています。1、3、5、7、9、11。
対して偶数ハウスというのは「見えにくい場所」。2、4、6、8、12。(10のみちょっと特殊)
見えにくい場所にある場所に月があるということ。
もちろんサイン(星座=色合い)にもよるのだろうけれど、「わかってもらいたい」という感覚というのとは違うのではないか。
そして見えにくい場所にあるということは、そうやって守る必要が確かにあるということではないか。
自分のことを考えつつ。
同時に月が偶数ハウスにある、人には期待せずそれでもおもしろくいつも付き合ってくれる複数の友人のことを考えています。
この映画がハッピーエンドだと思うところは、杏奈という女の子がさやかちゃんという「素のまま」付き合える現実の女の子に出会えたこと。そこにつきると思っています。