0地点から。(最近考えていること)
たまには、多分いつもよりはあやしいめのことを書いてみます。
もしかしたらいつかも書いた気がするのだけれど、
占いをさせていただいていてここのところ思うようになったのは、お客さまはその時自分に必要な言葉を取りにこられているのではということだ。
去年から外でイベントで出させていただく時におみくじを作るようになったんですよね。
それはすごくお客さまに喜んでいただけた感じがあって、わたしとしてはうれしいことではあるんですけれど、おみくじ自体はもうリアルタイムではなくて数時間前・数日前に書いてもう手放してしまったものなんです。
そうなるとわたしが「占って当てています」という感じは一切ない。
でも対面での占いのときだってそうだ。
わたし個人はみえるとかそういうのって一切ない。知っている人は知っているけれど、ふだんのわたしは共感力もほぼ皆無。なおかつ占う前に情報を詳細にいただけることというのはほぼない。
最初は警戒されていることが多いし(わたしだって占ってもらう側の時はそうだ)、きれいに状況を説明できる状態ならばきっと占いは必要はないのだと思う。
結局のところ素のわたしではなんにもわからないまま、占いの時間については毎回0地点からはじめていて。
そこでわたしができることはただただ読むだけ。
読むのはその方の心とかみえないものではなくて、目の前に出されたホロスコープやカードの組み合わせや手のひらに描かれた線や丘のもりあがりだ。
だけれどそれはどうやらなぜかその方の隠された思いとリンクしているらしいことが多くて、それは集合的無意識とかそういう言葉で表されるものなのかもしれないけれど、
それはわたし個人の理解の範疇を超えていて、文字を読んでもどうもピンとこない。
最近思うことは、
わたし個人が目の前のお客さまのことをわかろうとする必要はないということで。わかりきることなんてできっこないのだし、わたしがわかろうとするならば、そこを必ず超えたものがお客さまの中にはある。
としたらわたしは自分の主観を入れずに、やはり出ているものを読むことに徹することが基本で。
わたしが伝えるんじゃない。
お客さまがその時必要なものをわたしを通して引き出しにくるということなんだろうと、なんとなく考えている。
だからわたしはあくまでそのためのツールで、それを磨いておく必要はあるんだろうと。
なんだかおかしな感じだけれど、みえないわたしのはずなのに。扱っているものは、たしかにみえないものなんだろう。
(こんなことを書いているけれど、「当たる当たらない」ということで言うなら、全ての人が当てられるんだと思っています。わたしがしたのは読む訓練であって。そこは根本の資質ということではないはず。どのひととも同じ。それと常にパーフェクトなわけではもちろんない。正直なところ不得意分野もあるし。)
アトリエ kiChiを出て広がる光景にいつもはっとさせられます。吉祥寺キチムさんの敷地内なんだけれど、自分がどこにいるのかわからなくなりますね。
なかむらかえる
星とカードと手のひらと。
うっかり等身大で歩きだす、そんなお手伝いをしています。