終わりとはじまり
さてなんとなく恋愛シリーズPart3ぐらい。
こんなの誰が読んでいるのか…。
恋愛のことを考える、恋愛や結婚について気持ちをフォーカスするのをやめるようにしてみようと考えています。
どうもそっちにフォーカスすると、「自分が誰にも愛されない」「どうしていろんな人にできることがわたしにはできないのだろう」とかそういう方向に流れてしまってずれていってしまう。
ちょっとFacebookに流してしまった微妙なつぶやき(?)。
恋愛やら結婚のことを考えると悲観的になりがちだけど、そこから一歩離れると(悲観的なところを意識的にでも切り離すと)女子にはすごくしあわせにしてもらってるということに気がつく。
人と比較するというのが根底のよくないことなんじゃないかというのがちょっと浮かぶ。
でもこの問題を掘り下げると、しばらく動けなくなりそうなので今日は保留。
自分が「楽しい」「うれしい」ことにどんどん寄っていくことがあらゆる面においてGoodなのでは、と。
うれしさを奥深く味わう。
自分がいかにしあわせか、というのもゆるくでも感じたり。
自分の輝きも自然に増すと思うから。
目的は定めないほうがきっといい。
…輝きが増せたり、しあわせだということを感じられたらそれはきっとラッキーなのです。
だけどそこに「恋愛につながりますように」という欲みたいなものが入るとこんがらがってしまう。
多分そこは二の次ぐらい、頭からいったん離れてしまうぐらいの方がよいのだろうと。
もしかしたらそもそもが人との比較の話に落ち着く気がしているのです。わたしの場合。
「ほかの人にできることがわたしにはできない」「ほかの人が持っているものをわたしは持つことができない」という。
自分が一生一人かもしれないと思うと悲しくなるのは本当。
だけど、人のしあわせとわたしのしあわせはちがう。
そこの覚悟の話ということのような気もする。
もうひとつ。そのように考えることで自分を痛めつけたい、みたいな部分もきっとある。それはある種の快感。
そんなことを考えたのは、自分がしあわせだとか「うれしい」と感動する瞬間がここ数日、いくつもあったからだ。それはとても小さなことばかりだけど。
このかけがえのなさは宝石なんだと思ったの。
なんとなく本日のテーマは「死神」。終わりとはじまり。
(一回どん底まで落ちたほうがいいんじゃないのということもちらっと考える。)
そんなんですが、ずっと頭の中を延々流れているのは岡村靖幸の「ハレンチ」という曲。
へんてこな歌詞にへんてこな曲にへんてこなダンスにへんてこなPV。個人的にはたまらんです…。1996年。
ごめん。なんかぶちこわしで!