のみこまれないようにだけ
このこと、今のわたしでうまく表現できるかわからないけど書いてみます。
わたしは相当いい年なんですけれど、
多分多くの大人が若いうちに解決していそうな問題をいまだにねちねちと抱えていると思う。
まあ要するに自分否定がベースにあるというか...か。
否定することはどこか安心なんですよ。
最初っから否定しておけば何があっても「そんなもんさ」でやりすごしやすくなるから。そのかわりにどんなよいことも低めに受け取る、みたいな。
そうすれば受け取るものも小さいけれど、なにかあった時に痛手も小さくてすむ。
ひとつの守り。
今のわたしは(いろいろ全てがうまくいっているとは言いがたいけどそれはまた別)わりとしあわせだと思っていて。
それでもふっとそういう否定感みたいなものががっつりと残っていることに気がつく。
先日、通信というものをつくってみました。
なにか文章を書きたくて、初回だから自分なりのスタンスみたいなことを書こうとしたのかな。
書いているうちに出てきたのは
「誰も自分のことを、それから誰かのことを否定したりすることがないように。だけれどまずは自分の心には正直であるように」
という文章でした。
生きてくうえでひとつ自分をらくにするコツみたいなものがあれば、それは
「人と自分を比べないこと」かなと思っています。
比べてろくなことないんだもん。
人と人はちがう。あの人にはできてわたしにできないことがあっても、多分あの人にはできないけどわたしにはできることだってきっとあるんですよ。優劣で考えることでもないんだけれど。それぞれがオリジナルだから。
でも比較する時って一面しかみないから。
そういうことすると人のこともみたくないし、自分のこともみたくないになる。
そういう時ってそもそも自分否定がベースでみてる気がするんですよね。
自分がいかにできないかとか、だめとか。もしかするとそこを自分の中で確認したくて比較してるんじゃないかと思うことさえあるし、
逆に自分を上げるために人を貶そうとしてるのでは、と思うこともある。
長年さんざんそんなことやってきて、ある時期にそんなことでエネルギー使いすぎな自分がいやになって「おもしろいと思うことにエネルギー使ったほうがよっぽど建設的」と思ったのだけど。...まあそれでもなかなか。
なにかのことをがんばって自分の中の自分の評価を上げていくというのもなしじゃないけど、
それはそれで「がんばれなくなったら」「なにかをなしとげられなかったら」が出てきたら折れてしまう。そもそも「がんばってる」時点でふつうのわたしじゃないから。
一番大事なことはどんな自分であっても、自分のことをOKとするになるのだろうけど。
結局誰が自分を評価しても、自分フィルターが強いとその言葉は自分の心には入ってこない。
そんな大きなところでの解決は時間をかけていくとして、
ふだんのわたしができることは、目の前のことをできるだけきちんとということと(それだって十分がんばってるって。みんなそう)と、
その前に、自己否定ゾーンに自分が入り始めているとなんとなくでも気がついたら、
そこに集中するのをやめるように意識するでしょうか。
ふっと離れて俯瞰できると、それだけで我にかえれる。
のまれていくことをストップするというか、自分の中でのスイッチを切り替えるようにする。
こんなふうに考えることは、これまで何人かのセラピストさんや専門の方からのコーチングでヒントをいただいたことがつながっているんでしょうね。
占いをしたり教えたりという仕事の中においては、基本はわたしがすることはお客さまの問いに答えること。
わたしの中でこっそりあるテーマとしては、自分自身の価値を自分自身で認識してもらえたら...っていつも思ってて。特に西洋占星術の講座を開催しているのはそこかなと思う。
もうひとつ「自分の心には正直であるように」と書いたことについてはいつか書くかも。ですけれど、今日はこれまで。
これは残念ながら、運動用に買ったけれど底が薄くてあまり使っていないシューズ。どこかで履きたいなあ。
なんかまとまりなくなってしまったけど、わたし誰かのことを素直に好きと思いたくて。それはまずは自分のことを否定してないことが前提なんだなって思ったんですよ。完全にじゃなくていい。できるだけ否定モードにもってかれないこと。
なかむらかえる
星とカードと手のひらと。
うっかり等身大で歩きだす、そんなお手伝いをしています。